源範頼伝説のあるお寺

源範頼は生きていた

― 源範頼(源頼朝の弟)伝説のお寺 ―

​(平安時代末~鎌倉時代初)

福井県越前市 浄土真宗本願寺派 日吉山​浄圓寺

TEL:0778-42-0047

浄圓寺は、源氏と平氏の末裔として清和天皇、桓武天皇の時代からの諸々の因縁、殺生の罪障消滅をお墓、位牌に奉り供養させて頂いております。

◆源範頼と日吉御前の墓所・菩提寺

 正史によると今から820余年前、文治3年(1187年)源範頼は、平家追討の功績がありながら、兄頼朝に追われ、伊豆の修善寺に幽閉され殺されたといわれています。しかし、意外にも範頼は密かに伊豆を脱出し越前守護の比企朝宗を頼り、旧今立町(現.越前市東庄境町と朽飯(くだし)町)まで逃れ、身を隠して暮らし、生き延びて此処で世を終えたと語り継ぎ信じられています。というのは、当地域にはいくつかの史跡が残されているのです。

 そして信仰の篤い範頼は、朽飯にある源氏の氏神「八幡神社」を祀り、それまでの「八架神」を「正八幡宮」に改め、八幡神社を鎮守として崇敬しました。また、越前三位通盛卿の息女である日吉姫を側室に迎え、建久4年(1193年)七堂を建立しています。範頼が他界した後、日吉姫は追善のために出家し、浄圓禅尼となって浄圓寺を建立しました。そして寺には範頼を後世に伝える木造範頼坐像、お蒲様(オカバサマ)や範頼公使用の膳・椀・刀、又、範頼の墳墓である洞窟、蒲墓様(カバカサマ)などがあります。

八幡神社本殿
源範頼木像
源範頼膳
源範頼剣
錦絵

朽飯(くだし)八幡神社本殿

創祀以来千五百有余年、百済国から機織に長じた織姫たちが渡来し、養蚕と絹織の技術を郷民に教え繁栄した。

織物の御祭神として「天萬栲幡千幡比売命」が祀られた。あめのよろずたくはたちはたひめのみこと
シンボルツリーの柊南天(花言葉:魔除け)もございます。

範頼公木像 お蒲様(オカバサマ)鎌倉時代作 全国でも珍しい

範頼公使用 お椀と刀

絹織物の刺繍の錦絵

女装して居館に忍び込んだ間者を家来が立ち向かっている所。浄圓寺、昔の古い箪笥の中から発見。

当東庄境区には、かって織物業が盛んであった。現在は6軒のみである。

​本堂内に大きなパネル8枚展示しました。本堂に来ていただけるだけで、行ったように感じます。

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日吉御前のお墓
日吉御前墓所

日吉御前のお墓

(源範頼の二子良範の末裔で戸板地区蒲智恵子氏が毎月お花を供えている)

蒲墓様
範頼公洞窟

蒲墓様(カバカサマ)

​刀とお椀が出土している

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◆源範頼とは

 源範頼は、仁平四年(1154年)静岡県浜松市浜名湖付近の蒲御厨(カバノミクリヤ)で清和天皇御六尊源義朝の六男として生まれました。その出生地から「蒲冠者(カバノカジャ)」と称されています。

  • 幼少期は蒲御厨で頼朝と同じく熱田大宮司、藤原範季に養育された。

  • 少年期は蒲御厨の浜松市飯田町稲寄山、龍泉寺で過ごした。

  • 青年期も稲寄山龍泉寺で過ごし、源頼朝の右腕であった安達藤九郎盛長の長女、亀を正室に迎えています。

  • 弟源義経と共に幾多の源平合戦に総大将軍として出動している。

  • 兄、頼朝の怒りに触れた言葉として「弟義経を討つことはできない」と、はねつけたことと、頼朝の妻政子への慰めの一言「範頼在リ仮大変有トテ憂ヲ為スコト勿レ」と、ごく当たり前の一言がある。

  • 建久5年(1194年)9月16日、40才寂。法名は「浄境院殿五位尉三河守源範頼尊儀」

◆日吉御前とは

  • 浄圓寺を開基した。

  • ​父は平家出身の越前三位平通盛卿(平清盛の甥)です。父の領地がこの朽飯と東庄境一帯にあったことから、日吉御前はこの地に逃れ、二子良頼、良範を授かった。

  • 日吉御前には、父から授かった一体の守護念持仏があり、古へより宝物として浄圓寺に安置してあったが、何時の頃か故有って一村の氏神として東庄境八幡神社に納められた。

  • 平清盛は当地に長谷寺を建立し、長谷寺写の額を掲げて後世に残した。彼は奈良長谷寺観音様を信仰し、平家一番の信仰者と言われた。

  • 建永元年(1206年)3月10日、35才寂。法名は「浄圓院殿妙法禅尼日吉大姉雲位」

日吉御前守護念持仏

日吉御前の守護念持仏

​七尺二寸木造着色の極めて麗しい観音像。平安時代 作

(現在、東庄境八幡神社観音堂に納められている。観音堂は往昔、四智山長谷寺なる浄圓寺末寺であった)

日吉御前の観音様

昭和58年、寄進により本堂余間に安置(浄圓寺になくてはならない大事な宝物である)

写額黒漆

西国三十三ケ所第八番大和国長谷寺写額

​「ふるさとをはるばるここにはせてらの 

・・・ちかひもふかき岩淵」

平安時代 作

平通盛が掲げたとされる。なぜか堂の外に出されており、山の中の風雨にさらされて、黒漆金文字はほとんど判読困難である。この扁額は四人の絵師によって描かれた。宮川藩江戸住者喜多川氏、橘光晟、田中安敬書之

 

◆浄圓寺と範頼と日吉御前

範頼と日吉御前の末葉である浄圓寺は、菩提寺として範頼木像を安置し、代々世襲にて現在29代目(28代目康之法師は平成28年3月22日往生76才)を継承しています。範頼は戦いが縁で日吉姫と出会い、後に僅かな言葉じりが原因で頼朝の怒りに触れ流罪になり、その流罪がもとで逃亡することとなり、結果、越前とのご縁となったのです。その御縁は氏神である朽飯八幡神社と源氏と平家の菩提寺である浄圓寺とに連綿と受け継がれてきました。姓は蒲之坊(ガマノボウ)と申し、これは明治維新後につけられ、それまでは蒲殿(カバドノ)でした。

山王山

居館跡(庄境城)があったとされる“おしろ山”(東庄境岡谷)東庄境の数町東にある小高い山(山王山)で、東西方間南北五間許りの新堀切あり、三間許四方の掻揚櫓台26ヶ所ある。範頼は村人に農業を励まし、日吉御前は自ら養蚕に努め村民の指導にあたった。この付近には山王花、堂屋敷、道場田、八講田等の地名が残っている。この間は平穏であった。

大銀杏

数百年来の大銀杏

生命力旺盛で枝はりが強く3年に一度剪定を行っている。

​(境内)

十三ノ塔

日吉御前 十三ノ塔

​(境内)

庭に立派な桜の木が咲きほこっていたが、今から20年ほど前に枯れてしまった。御殿桜といわれた。

“蒲”姓

東庄境、朽飯地区には昭和62年には10軒存在したが、今は4軒になってしまった。戸板地区の蒲幸助氏は四智山長谷寺の末葉(源範頼二子、良範)

紋所は源家の家紋 笹竜胆(ササリンドウ)

家紋 笹竜胆

山門の懸魚に配せられたもの

家紋 笹竜胆

瓦紋、山門、鐘楼、庫裡

天彌源氏

武運長久

日本三體佛

朽飯(くだし)八幡神社のご神体は、日吉禅尼が亡君の遺言により納めた持物 阿弥陀仏座像であり(第三)又、浄圓寺のご本尊は源頼朝が多田満仲(平満仲の異称)より授けられた世に多田、眠明、弥陀であります。(第二)ちなみに(第一)は、鎌倉五明山、薬師如来であり、これらを日本三体仏として、天弥源氏、武運長久を祀ったのです。

 

第二、第三の佛像の写は東庄境小林文治郎所蔵にて古文書中に発見、紙片縦26糎、横16糎ばかりなる紙片に、高12糎の佛像二體を毛筆にて克明に描きたる。

ご神体
 

◆もう影ではない

源範頼人物

源範頼は、弱々しい武将とみられていたが、後には一変して影の英雄と言われるまでになりました。それは、彼の生き方が武将でありながらも人間性を見失わなかったと言う事です。その生き方は、無欲で誠実、兄弟愛、慈悲の心と言う謙虚で心温かい人柄で、家来や周囲の人たちから親しみを持たれ、人望を得ていたことであります。まさに、人間範頼でありました。ものを見る眼の高さを変えてみると、知らなかった世界や人の心が見えてきます。人間範頼は、浄圓寺で木像として復活し、往古より蔵されてきました。そのお顔はりりしく、人生の試練を乗り越えて人間的に成長されたお姿です。
木像の前に立ちますと「自分を見失わず、真実のこころで生きよ」と、人々に問いかけようとなさっているようです。「真実」とは、嘘や飾りのないそのままでいいよという仏様の声であり、生活の中に生きてはたらく仏法でもあります。ただこの仏法は、ひたすら真実の心で生きている人に、そういう人の為にこそはたらいて下さるという仏の大きな力でもあります。その仏力は救いであり、時には「ほんとうか」「それでいいのか」とプレッシャーにもなって人々を守って下さいます。
はからいを捨て、一途に業を重ねていった範頼の愛とお慈悲の心はほんものでありました。又、範頼の兄、頼朝に対する一途な忠誠心は、その起請文によく表れています。

忠を尽くしてよりこのかた、全く弐心無し・・・萬が一にも此の文に違反せしめば、上は梵天・帝釋(共に仏法を守護する神)、下界は伊勢、春日、加茂、別しては氏の神正八幡菩薩の神罰をば源範頼の身に蒙る可き也  建久4年8月 参河守 源範頼

しかし、この叫びは頼朝の心を動かすことはできなかったのです。そこで私は範頼の心を仏法でいう“摂取不捨の心”と受け止めました。おそらく範頼は兄頼朝に対して“どうぞ私を見捨てないで下さい”という切実な心で兄の心のひるがえりを回心を望んでいたことと思います。それは範頼は篤い信仰のお育てのもとに、すでに御仏の光のもとに摂め取られていたからこそ、たとえ最期がどうあろうとも、必ず救うぞという仏のお慈悲のど真中にあずかっていたからだと思われます。頼朝にこの心が届き、気づき、目覚めた時、範頼にもその利益が回向され、二つの心が生じるのです。それは自分の生きざまを省りみて、「あゝ、こんな私でも仏様に拝まれていたのか」「お恥ずかしい」という懺悔の心と「おかげさま」という感謝の心であります。しかし、範頼の必死の訴えは、兄頼朝の心を動かすことはできなかった。頼朝は建久7年(1198年)52才で没し、範頼の没後4年目でした。でも、死んだら終わりではないのです。範頼の必死の訴えは今、830年の時空を超えて浄圓寺で仏法と共によみがえり、願いとなって生き続けているのです。今、浄圓寺に残されたいくつかの史跡は、日吉御前が範頼公と共に、この仏縁を後世に残してくださったといえます。範頼の生涯は哀れであったとみてしまう人に、今一度この悲劇の範頼を人間範頼として復活し、仏法として人々の心に生き続け、今も人々を導こうとしている尊像であることを伝えたい。これはまさに仏様のおはからいではないでしょうか。

人の寿命はさまざま。仏法にご縁があって信心を得た人は、短くても長くても、よき人生であったといえよう

源範頼絵図

◆ミニ源氏浄土空間

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 この絵図の全風景に見られる幾多の史跡は、820余年の歴史的事実を物語っています。往時、戦乱の世に翻弄され、罪のない人々が殺され、恨みつらみで死んでいった人達、修羅場に陥った人達等、多くの血が流された乱世の犠牲者を位牌やお墓として浄圓寺では安置しております。

 天皇家一門から源氏、平家の有縁仏、無縁仏の方々であります。今では夢、幻でありますが、浄圓寺ではこれらの方々を一同にまつらせていただいて供養しております。浄土を祈願する切なる声が、今はもう仏となられた安堵感で静かに眠っておられます。それはまさに千の風となって、この地域一帯をただよい舞っているようです。そして、この郷で永遠の命として輝き続けられますようにと、この地域の未来を願っているようでもあります。合掌。

 
日吉山 浄圓寺
浄圓寺へお越しください
日吉山浄圓寺

〒915-0251 福井県越前市東庄境町5-35
TEL:0778-42-0047

蒲之坊賢子 著
 

「影の英雄 蒲冠者」

影の英雄

「ミニ源氏浄土空間 ~源範頼 縁の地~」

ミニ源氏浄土空間